信仰―法話コーナー

法話

本来無一物なり【2018年3月の法話】

季節もそろそろ春を迎える時期となり、自然界でも新しい命が芽ばえるころとなりました。私たち人も生まれる時は何ひとつ持たず、欲もなく、一糸まとわず、丸裸で生まれ、すべてが真白です。そしてまた死ぬ時も無一物になって還っていきます。

本来私たちは無一物なのです。ところが生きて行くにつれ、大人になるにつれていろいろなものを身につけていきます。何かを手に入れるとそれを失うのが怖くなり、守ろうとしてしまいます。するとそれが執着を生み、不安を作り出します。生きていると知識や教養を身につけるだけでなく、欲望や執着も身にまとってしまいます。何かを手に入れたい、身につけたいと思うことは悪いことではありません。ただ、手に入れたものに執着する事に心を苦しめます。いい就職先へ、いい学校へ行きたい、素敵な人といっしょになりたい、子供を立派に育てたい…このような思いは向上心を生みます。しかし手に入れた職歴、学歴、立場に縛られると、だんだん「本音は違うのに…」「自分はこうしなくてはならない」と立場で言葉を選んだり、行動をきめつけたり、本心とは離れた仮の姿になりしがらみで苦しくなってしまいます。自分自身それに気づいたなら、いったん心を“さら”の状態に戻してみるのもいいと思います。何かを変えることに不安なのはあたりまえです。でも実は手放してみると心地よさがあります。

お正月に初詣に行き、お賽銭を投げ入れますが、お賽銭を投げることは執着を断ち切ることともいいます。喜捨とは惜しむことなく喜んで捨てることで心のかかえている執着やこだわりを捨てることになります。これまでの人生で引きずっていたものをこの「本来無一物」を思い出し、折々に手放すことを心がければ、心の棚卸しができ、「何もないのは、なんでもできる」と前に進んで行けると思います。

合掌

(三松 庸裕)

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